身近な仏教用語

02:刹那の気づき、一日の充実

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刹那(せつな)とは、非常に短い時間の単位です。
劫(こう)という、非常に長い時間の単位の反対の仏教語なのです。
色々な説がありますが、1刹那とは一説によると65分の1秒です。

私が教える中国拳法の一つに少林拳がありますが、その短打(ショートパンチ)では1秒に4,5発の打突を入れますので、瞬きよりも速いため、目にも留まらぬ突きになるのですが、それとて刹那の速さには敵いません。
当に一瞬よりもはるかに短い時間ですね。

現在、私たちが使っている日常語では、「刹那的」「刹那主義」など、一瞬の快楽に囚われているようすを表すときに、よく用いられる言葉です。
日常生活の時間に流されず、その時・その刻を大事にして、悔いの残らぬよう、一所懸命に味わうならば、素晴しい生き方であり、何事にも適応し、充実していける生き方となります。

進化・成長のためのきっかけとなる気づきも、ある時、一瞬・刹那に訪れます。
はっと気づいて会得するか、習慣・習性の自動的な流れに気づきが去ってしまうかに分かれます。
問題や苦悩の解決、成功や向上・進化には、刹那に訪れる気づきをキャッチすることが、きわめて大事なことです。
全ての事象は必然の糸で結ばれ、因が縁の作用で結果をもたらすものだからです。

ニュートンが林檎の実の落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したのもその一例です。
禅では、瞑想・思惟することだけでなく、作務(さむ)と称して、掃除や料理や畑仕事などの労務を行うことを大事な修行の一つとしています。
その一瞬、一瞬をひたすら集中し、大事として、悟りを得る手段としているわけです。

悟れぬまでも、私たちの一年は、年齢分の一の加速度をもって、人生を過ぎ去って往きます。
年々、月日が速く過ぎていくことに気づいていませんか?
只管打座(しかんたざ)ならぬ只管一日の行をお勧めします。

ただひたすらにこの一日を意識的に集中し充実させましょう。
眠る直前に、今日一日のよかったこと、楽しかったこと、快かったことを省み、悦びと感謝を持って追想し味わい返してみましょう。
眠っている間も、脳は働いています。
このようにすれば、ドーパミンや免疫力を高めるホルモンが分泌されて自然治癒力が発揮され、眠っている間に、気は体内を潤し五臓六腑を調えます。
ストレスや病気のある人には、眠ることが回復の大切な手段なのです。

朝、眠りと云う意識の失せた仮死の世界から甦り(黄泉還り)、新たな生き返った気持ちで、一日をスタートしましょう。
今日は昨日の連続、明日は今日の延長と、気づきや弾みなく時間に流され無為に過ごすことなく、一日一日を大切に、人生の充実化を図りましょう。
やがては二度と目覚めぬ眠りにつく時も、この習慣は、感謝と喜びに満ちた悔いのない人生のカーテンコールをもたらすことでしょう。

嫌なことや不快なこと、ああすりゃよかったと後悔することを思い出し、寝てる間も反芻して苦を味わうのは、効果的な生き方も死に様ももたらさないのではないでしょうか?