身近な仏教用語

15:観念2

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観念と云う言葉は、もともと仏教語でしたが、今は広く日常会話で使われていますね。

本来の意味は、瞑想などの行を通じて、心静かに仏法の真理を考えることです。
現在、私たちがよく使う意味では、事物に対して頭の中で抱く意識内容、記憶・印象・イメージ・考えなどを指しています。

「観念的だ」などと言うと、実際から離れて頭の中だけで考えるようすを意味し、屁理屈と同意義に用いられています。

「責任観念」「時間観念」などと言うと、対象に対する望ましい考えを意味します。

また、観念には、覚悟・あきらめと謂う意味もあります。
「観念しろ」と言うと、「もう、諦めろ」という意味ですね。

仏教を説いたのは、もちろんお釈迦様ですが、仏陀(ブッダ)という言葉は、釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)という一人の人間を指すのではなく、本来、覚醒者(真理に目覚め、悟った人)という意味なのです。
心静かに思惟し、仏法の真理を会得すれば、悟りとなります。

悟りとは、全てを理解し総合的に肯定した巨大な諦めの境地であると考えます。
覚りとは、あることを察知して、気づき、目覚め、覚えておくことですね。
覚りの日常バージョンでの現れ方の一つに、「なるほど」と得心することがあります。

これは、音叉が反応するように、心が共鳴して鳴るほどのことで、実は潜在意識では 知ってた・分かってたのですが、おかげで「そうだったのか」と納得できましたよ、 という意味合いですね。
多くの場合、私たちは、他から学び、気づくものです。真理は私たちの周りに常に遍 在しているものですからね。

卑近な例では、「人の振り見て、我が振り直せ」ということもあります。
誰かを嫌いだという例に於いても、心理学的に解明すれば、自分と同質もしくは同程度の嫌な部分を相手に見ている。
つまり、鏡写しに自分の嫌な部分を他人から見ていることに過ぎないのですよ。
そう、覚ると、解決や適応する方法も見えてきますね。

悟りのメカニズムは、自己の内面にある苦を突き詰めて観続け、究極の自己否定から全てを理解・肯定し、受け容れ、幸せ感や悦びを伴う諦めの境地に至ることです。陰極まって陽となる術理ですね。

悟りの境地に至ると、全ては明らかであり、幸せであり、静寂なはずです。
仏陀ならぬ人間の私としては、悟りをこのように観念的に捉えているのです。

人をやめて仏になる時、悟れればいいかなあ?「人でなし」は多いけど、人以下のケダモノが多く、神にも仏にも成れていませんね。

人の振り見て我が振りを直し、不利を直して行きましょう。