身近な仏教用語

18:無常

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平家物語の冒頭文は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」から、始まりますね。
「無常」は、難解な仏教語の中では、一般の人々にとっても、比較的なじみの深い語です。

多くの場合、「無常」は、生命のはかなさ、もろさを嘆く意味の語として受け止め られているようです。
さらに人生は頼りないもので、いつ死ぬか分らないというとこ ろから、死と結びつけて考えられ、古典では「無常」が死そのものを意味して使われ ている用例すらあります。

「無常の煙」といえば「火葬の煙」をさしており、「無常」には、何かしら暗いイメージがつきまといます。
だが、本当に、「無常」にそのような意味合いが含まれて いるのでしょうか?

「無常」のサンスクリット原語は、アニティア(anitya)です。
アニティアは、ニティアという語に、否定の意味を持つアが加えられてできている語なのです。
そして、ニティアは「常の」「永久の」「恒久の」「永遠の」「不変の」などを意味する形容詞です。
アニティアは、それらの内容を否定するもので、「常ではない」「非永遠 的な」「一時的な」などの意味を持つ語なのです。

「諸行無常」は、「われわれが経験するものは恒久的でなく変化する」という意味であり、ただちに死と結びつく意味を持ってはいません。

仏教の仏教たるゆえんを示す三つのスローガンを三法印と呼びますが、「諸行無常」はその一つです。
この世において、生きとし生けるものも、又、それらが住んで いる世界も、すべては時の流れとともに移り変わってゆく。
変化する現象を超越する 固定的な実態は存在しない。
このような現実把握は、仏教の出発点となるものでし た。

私たちは、外界の事物を固定的なものとしてながめる習慣が自然についています。
しかし、実際のところは、固定的で永遠不変のものは存在しないのです。

例えば、太陽は常に燦燦として輝き、いつまでも変わりなく光と熱をを私たちに降り注いでくれているかのように見えますが、これとても永遠ではありません。
太陽が滅び去れば、われわれの住む地球も、滅びざるを得ません。

いや、そんなに 大きな対象を考えて見るまでもありません」。
私たちの身の周りを見わたしてみれば 充分すぎるほどでしょう。
コップは壊れるし、洋服や靴はすぐにすり切れて消耗して しまいます。

人間もまた同様です。
いつまでも若いままでいることはできません。
あっという 間に歳をとります。
歳をとるほどに月日の過ぎ去ることの早いのに驚かされるでしょう。
この事実は、いかんともなし難いですね。
人の一年は、その人の年齢分の1のスピードで過ぎ去って往きます。

仏教の「諸行無常」は万物が変化するという事実を、ありのまま述べているだけであり、とくに難しい思想を振りかざしているのではありません。
また、人生のはかなさを悲観的にながめろと言うのでもありません。
生じたものは必ず滅する、すべては 変わってゆくという事実を正しく把握した上で、限りある生命に無限の価値を見出そうというのが「諸行無常」の意味なのです。

もしも、人間の生命が永遠であり、限りなく続くとしたらどうでしょう?
地球上 が人間で埋まるじゃないかなどという議論はさておくとしても、人間は働く必要も無 くなり、何かをしようとする努力を放棄してしまうでしょうね。
限りあるからこそ生命は大切にせねばならないのであり、短いからこそ貴重であると 言えるのです。

「無常」であるから、人間が努力して変化向上する可能性も見出せるのです。

すべては刻々と変化するから、一瞬たりともおろそかには出来ない。
「無常」は、 仏教の基本的人生観を示す語であり、仏教の努力主義を裏付けるものなのです。