身近な仏教用語

06:百八

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大みそかの夜、全国各地の寺院で、除夜の鐘が打ち鳴らされます。
夜のしじまを破ってゴオーン、ゴ~ンと響き渡る鐘の音は、旧き年の終わりを告げる風物詩として、印象深いものですね。

この鐘をつく回数が百八回であるので、除夜の鐘は百八の鐘とも呼ばれています。

「百八」という数は、この他にも色々あります。
例えば念珠は珠の数が決まっていて、多いのも少ないのもありますが、僧侶が儀式用に使う念珠の珠の数は、「百八」と決まっています。

精神統一をあらわす仏教語の一つに三昧(さんまい)という言葉がありますが、『大般若経 (だいはんにゃきょう)』や『大智度論(だいちどろん)』には、百八の三昧が列挙されています。

密教の金剛界マンダラの成身会(じょうじんね)に配される仏・菩薩などの総数は、百八尊あります。

真言密教の予備修行(加行(けぎょう))において、最初に行うのを礼拝行と云いますが、この行では、日に三度、念珠を擦りながら百八回の礼拝を行います。
また、諸仏・菩薩の真言を唱える場合にも、百八遍唱えることが多いものです。

「百八」は、仏教においてのみ尊重されるのではありません。
バラモン教の聖典であるウパニシャッドを取り上げてみても、「百八」という数がよく見られます。

たとえば、『ムクティカー・ウパニシャッド』1・29には、もしこの身のままで解脱するのを望むなら、百八のウパニシャッドを読誦せよ、と記されています。
念珠を受持することによる果報を説く 『ルドラ・アクシャ・ジャーバーラ・ウパニシャッド』17には、念珠の珠の数が百八であることが記されています。念珠の百八珠が仏教だけでないことが、ここに分かりますね。

そのほか、『ラーマ・ラハシャ・ウパニシャッド』1・8に、英雄ラーマの名が百八であるとか、
ドゥルガー女神を賛美する『デーヴィー・ウパニシャッド』20に、この女神の修行儀軌が百八遍である、と記されるなど、
「百八」という数をあげるものは 少なくありません。

「百八」を尊ぶのが仏教だけでないとすれば、さらにその淵源を訪ねてゆくことも可能かもしれませんが、あまり細道に踏み入らずに、目指す仏教の「百八」について見てみましょう。

「百八」は、煩悩(ぼんのう)の数をあげたものであるとされますが、その数え方はさまざまなのです。

人間のもっている眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官が、色・声・香・味・触・法という六つの対象を把握するとき、好・悪・平(非好非悪)の三つがあり、計18となります。
その一つ一つに染と浄の 二つがあって計36となります。
これに過去・現在・未来の三つがあって、合計百八の煩悩がある、とするのが一つの説です。

別の数え方によれば、六つの感覚器官に、快感(楽)と不快感(苦)とそのどちらでもないもの(捨) の三種の感受があり、計18。また、好・悪・平の三種があって計18。合わせて36となります。
これに過去・ 現在・未来の三種があるから、合計百八になる、といいます。

倶舎宗(くしゃしゅう)では、修行階程によって煩悩を分類しています。
真理を誤認することなどから生ずる観念的な迷い(修惑(しゅわく))を十種数えて、九十八使とか九十八随眠(ずいめん)とか呼びます。
これに十種のまとわりつく煩悩(纏(てん))を加えて、百八になる、とする数え方もあります。

ともかく、こうして煩悩が「百八」数え上げられ、その結果、除夜の鐘の「百八」も生じたのです。

除夜の鐘の「百八」については、1年の12ヶ月、24節気(1年を24等分した呼び名で立春・春分・夏至・大寒などの類)、
および72候(1年を72等分したもの)を合わせた数とする説もありますが、
やはり、百八の煩悩を鐘の音によって覚ます、という意に解したほうがしっくりくるような気がしますね。