身近な仏教用語

14:観念

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日常語としての「観念」は、二つの意味で用いられていますね。
一つは、心のなかに浮かぶ「考え」「思い」という意味です。
これは、哲学の述語 としての「観念」が日常語化したものと思われます。

哲学における「観念」は、思考の対象となる表象、意識作用を意味しているのです。
牛の観念とか、本の観念とかいう類であり、哲学が我が国に輸入された際に、ギリシア語のイデアから派生したアイデア、イデーなどのヨーロッパ語の訳語として、実は、仏教語の「観念」をあてたものだったのです。。

観念論的などという語は哲学だけでなく、一般的にもなじみ深い語となっていますね。

「観念」のもう一つの意味は、「あきらめる」とか「覚悟する」ことです。
「スリ が刑事に腕をつかまれて、もはや逃げられぬと観念した」などという場合がこれですね。

考えの「観念」も、あきらめる「観念」も、元は仏教語の「観念」なのです。

それでは本来の「観念」には、どんな意味があるのでしょうか?

「観念」のサンスクリット原語は、スムリティ(smrti,またはアヌスムリティ anusmrti)です。
これは、動詞の語根スムリから派生した女性名詞なのです。
動詞の スムリには、「記憶する」「想い浮かべる」などの意味があります。
スムリティは、 単に「念」と漢訳されることが多いのですが、「記憶」の意味ではなく、「想い浮か べる」ほうの意味であることをはっきりさせるために、「観」という字が付加される ようになったのではないかと想像されます。
したがって、「観念」は、「心に想い浮 かべること」の意味となります。

インドにおいては、古くから、精神統一をはかるヨーガの行が行われて来ました。
瞑想を深めて、絶対静寂の境地に到達しようとする修行法です。

ヨーガ行は、インドの諸宗教に取り入れられましたが、このような瞑想法の一つとして、ウパニシャッドには、ウパーサナが説かれています。
ウパーサナは、「崇拝」とか「念想」と訳される語で、宇宙の本体であるブラフマンと我々自身とが本質的に同一であることを念じて、絶対者ブラフマンと合一しようとする方法を指します。

仏教においても、ブッダの姿や功徳を想い浮かべ、自らをブッダに近づけようと する修行は、早くから行われていたと思われます。
たとえば、『増一阿含経』広演品 には、仏の姿やその功徳を想い浮かべる修行によって、涅槃(ねはん)に至ることが 説かれています。

仏を思い浮かべるのを「念仏」というが、これはとくに浄土教系統の経典において強調されました。
対象としての仏は阿弥陀仏が代表的であり、極楽浄土の様子など を観念する方法も説かれました。

密教においては、三密加持と称して、本尊の姿を心に思い浮かべ、口に真言を唱え、手に印契を結んで本尊と一体になることを説き、観念を重視しています。

このように、仏教の「観念」は、仏や菩薩の姿、名称、浄土の相、あるいは真理などを対象として観想し、思念することを意味しています。

ここから、「深く心におもいをこらす」という意味が生ずる。深くおもいをこらして思念すると、ある事実に対してその結果をはっきりと知ることができます。結果が把握されることによってあきらめもつきます。
こうして「観念」に「あきらめ」の意 味が生じて、一般的な用語となったのだと考えられます。